きみは「Let it be」と言った

ありのままに自分の好きなことを思いつくまま

プロローグ

なにかを始める時は、軽い気持ちがいいよ。
ぼくの親友は軽快に言い放った。
 
「くよくよ悩まないほうがいい。やってみよう。思い立ったが吉日と言うくらいだから。」
そんなことを言って、親友はプロポーズを成功させて、新しい家族を始めた。
最近になって子供も生まれた。
順調そのものである。
 
 
ぼくは、もう一度、ブログを始めようと思う。
かっこなんてつけない、ありのままの自分で、書いてみようと思う。
まだ何者でもない、ぼくの日常を綴ってみようと思う。
 
 
最近、生きる中で、頭を使わなくなってきた。
使わなくなったのか、使えなくなったのか。それはわからないけれど、毎日を均質にしている正体は、ぼく自身であることは明らかだった。
考えないこと、それが生きることを簡単にしていた。
 
同じくらいの時間に起きて、
同じくらいの時間の電車に乗って、
ビジネスマンになりきれないサラリーマンをして、
コンビニのおにぎりと野菜ジュースを摂取して、
少しだけ残業して、
ため息とともに最寄駅について、
テレビを観ながら、安くなったお弁当を食べる。
同じくらい夜更かししたら、
明日に期待をすることなくふとんに入る。
 
時間を無駄遣いするのは、とてつもなく気持ちがいい。
自分の可能性がどんどん消費されていくのはわかっているけれど、大きな流れに組み込まれ動き続ける歯車のような毎日は、"なにか"が休まる気がしていた。
 
社会人という立場は、その気持ちよさを促進させている。
社会に属し、自分の生活費を自分で稼いで、まるで自分の力だけで生きているかのように錯覚して。時に、古い友人と会って話したとき、大人になったな、なんて話をする。帰省したら両親に仕事頑張っているんだな、と労いの言葉をもらう。
 
抑揚なく、強弱もない時間の上を、何者かの顔をして、ズカズカと歩く日々。
振り返ることはしない。振り返るとなにもないのはわかっているから。そうしているうちに振り替えることもできなくなる。
前しか見ることができないから、茫漠なもののの中をただひたすらに流されていく。
かつての偉人は「簡単すぎる人生に、生きる価値などない」と言ったらしい。
だとするとぼくは、生きる価値などないだろう。
 
でも、だからといって、死ぬことはできない。
家族がいる。
出逢って、時間を共に過ごしてきた、大切な人たちがいる。
その人たちを悲しませることはしなくない。
 
なにかを始めないと、気がついたら終わってしまう。
世の中には、始まりはなくても、終わることがたくさんある。
もうこの世にはいないあの人は、「まだ始まってすらいないか。」と言ってくれただろうけど、終わっていったものがあるのは事実だろう。
 
日常の中で、頭を使えるようになりたいと思った。考えて、生きてみたいと思った。
「考えろマグガイバー」
あたまのなかで警笛がなる。
 
なにか一つでいい。均質な日々の中から、一つでも気になることを摘みとり、書いていこう。
誰のためでもない、自分のためにブログを書こう。
世の中に認めてもらうためであれば、まず、ターゲットを定め、ターゲットに必要な情報を提供するためのブログを書く、というのが鉄則だろうけど、そんなものは知ったこっちゃない。
これは趣味であり、自分のためにすることだから。
とにかく書く。
日記みたいな日もあれば、日記にはならない日もあると思う。
でもそれでいいと思う。
 
くよくよ悩まないほうがいい。
やってみよう。
思い立ったが吉日と言うくらいだから。