きみは「Let it be」と言った

ありのままに自分の好きなことを思いつくまま

今日で30歳になった。

今日で30歳になった。
 
小学6年生の時に担任だった先生が30歳の誕生日を迎えた日に
サプライズで教室を彩り、プレゼントを渡した。
涙する先生のありがとうの言葉が照れくさくって、覚えたての三十路という言葉を使って、精一杯の抵抗をした。
パラレルワールドが存在したとしても、自分の世界線とはつながっていない将来だろうと思っていた。
 
僕には5歳年の離れた従兄がいる。
その従兄が就職したのが30歳だった。従兄は頭のいい人だ。そして周囲に素敵な友達が多く集まる不思議な影響力を持っている人だ。しかし、そんな従兄が大学卒業後の多感な時期に母(僕の叔母にあたる人物)をなくし、自分の人生を停滞させてしまっていた。医者になるための再受験や引きこもりを経て、大きな一歩を踏み出したのが30歳だった。
そのころ僕は今の会社に就職し、仕事を始めた時期だった。働かない従兄に軽蔑の目を向けていた。30歳になっても社会に貢献できていないなんて、みっともないと、本気で考えていた。僕はとても幼稚だった。
30歳になると社会人として大きな仕事をするのだろうと、根拠も能力もないのに考えていた。
 
30歳は大きな節目のように言われる。
20代はインプットで30代はアウトプットをする時期である、というような言葉も聞いたことがあるような、ないような。
これから年齢を書くとき、十の位に”3”を書かなければいけない。その毎に自分は20代ではないことを実感するだろう。
 
社会は思いのほか広いことが分かった。
30歳はまだ世間的に見れば若者なのだろうと最近思う。
「まだ若いね」や「まだまだこれから」と将来は可変なのだという言葉をいただくたびに自分を信じたいと思う一方で、冷静にこれまで生きてきた数年で変わらなかった人生、このままいくだろうと見え始めた運命を不変のものだと感じてしまうこともある。
 
これまで生きてきて、ひとつだけ確信していることがある。
それは、人間は歳で判断されるものではないこと。
若くしてこの世に大きく貢献する人もいるし、いつまでたっても自分の殻を破れない大人もいる。
歳は可能性の大きさに依存しないのだと、そう信じたくなる。
 
何かをしなければいけないわけではないけれども、せっかくこの世に生を受けたのであれば、と考えてしまう、ぼくはまだ幼稚なのだろうか。
『男子三日あらざれば刮目してみよ』の言葉通り、年齢ではなく、日単位で成長を信じるのは、まだ世間が分かっていないのだろうか。
 
従兄や先生より幼稚ではあるけど、自分はこんな30歳になった。
こんな自分と付き合って30年。
これからまだまだ自分にワクワクしながら生きていけたらいいなと思っている。
 
まとまってないけど久々のブログだから許してください。
少しずつまたこれから、心にあることを書いていきます。