日本人なら誰でも知っているといっても過言ではない作品。
親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。
有名であるがゆえに、国語で、書き出しをこたえよ。のような問題も出題されたりする。
初めてこの本を読んだのは、大学生の時だった。
二十歳を超えてからだったと思う。
読書に目覚めた僕は、当時の話題作などの新しい作品しか読んでいなかった。近代文学には手を出せていなかったのだ。
理由は簡単。
作品に古い日本語表現が混じっていたから、である。
ただ、小説の面白さを知っていくうちに、近代の文学も読んでみたいと思うようになってきた。
教科書でも紹介されるほどの偉人が描いた作品は、どれほど面白いのか気になった。
どこから手を出そうか悩んだ末、高校の国語の教科書に『こころ』が掲載されていたことを思いだした。
『こころ』は読みやすかった覚えがあったから、夏目漱石の作品を読んでみようと思った。
中でも内容は全く知らなかった『坊っちゃん』を選んだ。
夏目漱石の文体は、歯切れがとても良い。リズミカルで一文一文の情報量が多くないから、古い文体、難しい言葉が入っていても、読んでいてしんどくならない。
また『坊っちゃん』は一人称で語られるため、感情移入がしやすい。
ストーリー展開も早く、飽きることなくページをめくることもできた。
あらすじは、筋の通らないことはしない、自分の気にくわないことはしないという”坊っちゃん”が
東京の学校を卒業し、松山の中学校に赴任してからのどたばた生活の物語。
喜劇のようだけどそれだけじゃない。
今回読んでいて、物語全体から「寂しさ」のようなものを感じた。
”坊っちゃん”のように素直で単純で真率な人は、社会においては生きづらいだろうな、と思った。
残念ながら、社会はそのような人に対してやさしくないから。
日本人特有なのかもしれないけれど、年を取るにつれて、周りの目を意識するようになる。
それは素晴らしいことであるとぼくは思う。
相手は何を不快に感じるのか、どうすれば迷惑をかけないか、できるだけ間違いでない行動や言動を考えて体現する。
そうして繊細に生きることは、自分以外の人の幸せにつながるだろう。
いい人だと思われるだろうし、信頼関係も築くことができる。
人間として、日本人として相手のことを思いやることができるのは文化であり、世界から評価もされている。
ただ、少し問題だと思うのは、社会において相手を思い考えることが暗黙の了解になり、できることが当然となっていることである。
そのような雰囲気は、ときに異質なものを遠ざける流れを生む。
目立った悪者はいないのに、気に入らないものを排除しようという負の力が働いてしまうことがある。
”坊っちゃん”に降りかかる出来事もそんな負の力が働いてしまったものであると思う。
誰も悪くない。だけど、なぜかよくはない出来事が起きてしまう。
その出来事は、とても現実的で、陰湿。
そんな社会では、素直な人は孤独を感じ、寂しい思いをすることが少なくない。
”坊っちゃん”も、松山赴任中はずっと寂しかったのではないか、と思う。
”坊っちゃん”の松山での生活はいつも一人だったし、”唐茄子のうらなり君”に得体のわからない共感を感じていたことからも、それは伺える。
物語の最後では、協力してくれる教師がいたけども、それは共通の敵がいたからで
最後のページでその教師と別れが簡単に書かれているけども、別れたきり逢う機会がない、とも書かれている。
どれほど滑稽な場面でも、作品から常に寂しさがあった。
ただ、それだけの物語であると、『坊っちゃん』はこれほど有名にならなかったとも思う。
そして、”坊っちゃん”に何があろうと大成するであろう、と言ってくれていた。
松山での生活中、”坊っちゃん”が”清”からもらった手紙を読むシーンが登場する。
”清”の存在は”坊っちゃん”にとって、とても心強かったはずだ。
実生活においても、自分をすべて受け入れてくれる存在がいることは、とても心強い。
何かうまくいかない時、孤独だ、と感じることが一番心にこたえると思う。
何かがうまくいかないことはよくあると思う。その時、様々な感情が生まれる。
ダメだな、と思うこともあれば、なにクソ、と思うこともある。
大切なのは、その吐き出し口があること。吐き出してはいなくても、その存在がいること。
一人、そういう存在がいてくれるだけで生きてみようと思えるほどだと思う。
ぼくにも、ありがたいことに確かにそういう人がいてくれる。
そういう存在に生かされてきたのだ、と『坊っちゃん』を読んで改めて気づかせてもらった。
人を生かすために生きている。
人間の生きる意味はそういったところにあるかもしれない。
自分の存在意義はあくまでも自分ではなく他人が決めるのかもしれない。
歴史における名著はやはりすごかった。