きみは「Let it be」と言った

ありのままに自分の好きなことを思いつくまま

何度目かの歩き出し 旅の始まり

前回の記事から2年が経った。
丸2年、仕事中心で生活してきた。
朝起きて机に向かい、打ち合わせをしたら適当なお昼ご飯を食べて、その後はまた打ち合わせ。
夕方を越えたくらいから次の日の打ち合わせの準備をして、気がつけば22時を越えている。
布団に自分から入れる日が毎日ではなく、気がつけば朝になっていていることもあった。


仕事をどれだけ頑張っても、なぜか前に進んでる気持ちはなかった。
それは、流れていく時間の中をもがき苦しんでいるようにしか感じないもので、とても苦しい時間だった。


そんな時間は悪いことばかりでなく、僕に幾つかの気づきをくれた。
仕事に対する考え、本当にやりたいこともぼんやりと見えてきた。


中島敦の言葉が今胸に重くのしかかる。
人生は何事をもなさぬには、あまりにも長いが
何事かをなすにはあまりにも短い


友人に言われた、言葉もさらに深く僕を突き刺した。
あと2年の命ですと余命宣告を受けたら、どう生きるのか、今の生活を続けるのか。


まだぼんやりとしか見えていない自分の生きたい道。
どんな風景を見るかは僕次第であることだけはわかる。


書くことをやめてはいけない。
どんな短文でまとまりのない文章でもいい。
書き続けよう。
これは紛れもない、自分のために。
自分の時間を取り戻すために。


生きているのなら、
この世に時間が与えられているのなら、
できないことに傷ついても前に進まないといけない。
前へ前へ。
自分が想像すらしなかった場所や景色を見るために。

今日で30歳になった。

今日で30歳になった。
 
小学6年生の時に担任だった先生が30歳の誕生日を迎えた日に
サプライズで教室を彩り、プレゼントを渡した。
涙する先生のありがとうの言葉が照れくさくって、覚えたての三十路という言葉を使って、精一杯の抵抗をした。
パラレルワールドが存在したとしても、自分の世界線とはつながっていない将来だろうと思っていた。
 
僕には5歳年の離れた従兄がいる。
その従兄が就職したのが30歳だった。従兄は頭のいい人だ。そして周囲に素敵な友達が多く集まる不思議な影響力を持っている人だ。しかし、そんな従兄が大学卒業後の多感な時期に母(僕の叔母にあたる人物)をなくし、自分の人生を停滞させてしまっていた。医者になるための再受験や引きこもりを経て、大きな一歩を踏み出したのが30歳だった。
そのころ僕は今の会社に就職し、仕事を始めた時期だった。働かない従兄に軽蔑の目を向けていた。30歳になっても社会に貢献できていないなんて、みっともないと、本気で考えていた。僕はとても幼稚だった。
30歳になると社会人として大きな仕事をするのだろうと、根拠も能力もないのに考えていた。
 
30歳は大きな節目のように言われる。
20代はインプットで30代はアウトプットをする時期である、というような言葉も聞いたことがあるような、ないような。
これから年齢を書くとき、十の位に”3”を書かなければいけない。その毎に自分は20代ではないことを実感するだろう。
 
社会は思いのほか広いことが分かった。
30歳はまだ世間的に見れば若者なのだろうと最近思う。
「まだ若いね」や「まだまだこれから」と将来は可変なのだという言葉をいただくたびに自分を信じたいと思う一方で、冷静にこれまで生きてきた数年で変わらなかった人生、このままいくだろうと見え始めた運命を不変のものだと感じてしまうこともある。
 
これまで生きてきて、ひとつだけ確信していることがある。
それは、人間は歳で判断されるものではないこと。
若くしてこの世に大きく貢献する人もいるし、いつまでたっても自分の殻を破れない大人もいる。
歳は可能性の大きさに依存しないのだと、そう信じたくなる。
 
何かをしなければいけないわけではないけれども、せっかくこの世に生を受けたのであれば、と考えてしまう、ぼくはまだ幼稚なのだろうか。
『男子三日あらざれば刮目してみよ』の言葉通り、年齢ではなく、日単位で成長を信じるのは、まだ世間が分かっていないのだろうか。
 
従兄や先生より幼稚ではあるけど、自分はこんな30歳になった。
こんな自分と付き合って30年。
これからまだまだ自分にワクワクしながら生きていけたらいいなと思っている。
 
まとまってないけど久々のブログだから許してください。
少しずつまたこれから、心にあることを書いていきます。

書くこと、残すこと、そこに在ったということ

2020年10月26日のこと。
秋晴れとGoogleで画像検索をすると今日の空が出てくるだろう。
そんな天気だった。
気温も暑すぎず、寒すぎず。
そんな天気に手招きされるように、ぼくは散歩に繰り出した。
 
シャツを羽織って、薄手のパンツを選んだ。
インナーとして、ヒートテックは念のため着た。
 
最近もずっと家で仕事をしているけれど、天気・天候は偉大だと思うことが多くなった。
家から一歩も出ない日があるにも関わらず、僕の気分は天気に左右される。
天気は偉大だ。
 
目的もなくただただ陽の指す方向に向かった。影の多い道よりも光の中を歩きたかった。
猫を追いかけて、地球屋にたどり着いた雫の気持ちのように、気持ちを高ぶらせて足を進めた。
新宿御苑に向かっていた。
 
新宿の近くに住み続けて、もう2年になる。だけど新宿御苑の方向に歩いた回数は数えことができるくらいしかない。
その方向で行くと新宿に出るのに時間がかかる、ということが、新宿御苑の方向に向かうことを少なくしている理由だった。
そんな数少ない中でも、鮮明に覚えているのは1回。
確かその日も天気が良くて、当時お付き合いしていた彼女と周辺を散策したのだった。
歩き疲れた僕たちは目についたカフェに入った。「幸せのプリン」を売りにしているカフェで店内は何か特別な雰囲気があるわけでも
メニューに力を入れているでもなかった。お客さんもまばらだった。
ぼくたちはその時、幸せのプリンを注文しなかった。
 
そんなことを思い出しながらぐんぐんと新宿御苑に向かった。
僕と同じように散歩をしている人は多かった。やはり天気は偉大だ。
 
知らない風景の中を歩くことは楽しい。海外を歩いている気分になれる。
何かの本かテレビ番組で脳を活性化させる良い方法として、知らない街を歩くことが紹介されていた気がする。
なるほど、確かによく観察して足を進めている自分がいることに気が付いた。
 
こんなところにおしゃれなお店があるんだな。
このお店はシャッターを下ろしているけど、夜は営業しているのだろうか。
あのお店はおいしいのかな。このお店は価格帯が高そうだな。
夜はどんな雰囲気をしているのだろうか。。。
 
観察して、空想して、想いを馳せる。
 
歩くという行為は、知っている道を歩くときは足を進めるだけだ。
移動の手段の一つ。だからどこでもドアの開発を待ち望んで切る人が多いし、出勤では心が躍らない。
知らない道を歩く時、足を進めるだけではなく、歩くこと自体が楽しくなる。
どこでもドアができても、ぼくはそのドアノブを握らないだろう。
 
結局新宿御苑の前まで行って、ぼくは中に入らなかった。
新宿御苑のそばにある、遊歩道を歩いた。そんなところがあることも新宿御苑まで徒歩20分圏内の場所に2年近く住んでいるのに知らなかった。
知らないことばかり、でもそれが楽しかった。
 
そろそろ帰ろうかと思ったとき、どうしても気になる雰囲気の喫茶店があった。
「カフェ・テラス ドム」
もう2つ前の元号である昭和から取り残されたような外観、路上に向かって出している看板にあるメニュー。
僕はレトロなものを好む傾向にあるけども、その雰囲気はレトロだけではすませてはいけない味があった。
アイスコーヒー1杯500円、ナポリタン630円。新宿近辺の喫茶店では安いほうだと思う。
 
ドアを開ける。おじいさんとおばあさんで営んでいるようだった。
キッチンに立っているのはおじいさんで、おばあさんが注文を取ったりお会計をしたりしていた。
キッチンのおじいさんはフライパンに向かっている様子だった。ケチャップの酸っぱいと甘いが重なった匂いがほのかに香ってきた。
ドアを開けても反応がなかった。ドアに鈴が付いていないから気が付いていないのかと思って、ぼくは言った。「一人です。大丈夫ですか。」
反応がない。
営業時間は過ぎていないし、お客さんは僕以外にあと1組だけ。
入口に立ちすくむのも居心地が悪かったので、入り口付近の席に座ることにした。
 
席に着いて少ししてから、キッチンにいるおじいさんが僕に行った。
「いらっしゃいませ。」
大きくはないけど、温かみのある声に店に迎え入れてもらった喜びを感じた。
おじいさんの声に反応して、おばあさんが僕の席に水とメニューを運んできてくれた。
ただ、おばあさんは口を堅く結んだまま。勝手に店に入り、席についてしまったことで、おばあさんの気分を害してしまったか気がかりになりながら
僕は、アイスコーヒーとナポリタンを注文した。
おばあさんは僕の席に隣にいただけど、キッチンのおじいさんが反応した。
 
 

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たばこのヤニで黄ばんだ壁と天井。
簡易なテーブルとハリのある革のソファー。
詰めて並べられたカウンター席。カウンターにはサイフォンが並べられていた。
店内には70年代、80年代の洋楽が流れていた。
その空間何もかもが心地よかった。
 
店内を観察していて、メニュー以外の張り紙がいくつかあることに気が付いた。
その張り紙にはどれも同じことが書いてあった。
『27年間、価格変更せずやってきましたが、もう限界 変更しました。
併せて、妻は2014年くも膜下出血を発症。すべてに普通ではありません。ご理解ください。』
 
 
人間には寿命がある。その人間が運営しているお店にも寿命がある。
少子化、過疎化によって跡継ぎ問題などが騒がれるようになってきてはいるけども、
お店や仕事は永遠に続くものであるかの錯覚をさせる。
通常、お店は営業をやめるとその店舗を改装などしてまた新しいお店ができるか、完全に取り壊されて全く別のものができる。
そこに何があったかを語る人がいなくなれば、簡単に記憶から消える。
存在していたはずであるはずなのに、存在していなかったことになってしまう。

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書くことを続けようと思ったのは、アイスコーヒーを飲み終えた時。
そのアイスコーヒーは苦みが強かったからか、お店を出ても僕の口に残り続けた。
 
 

君のいない道の上へ

2017年6月28日から、2020年10月3日まで、3年と3か月ほど。
電話できない日も連絡取れない日も数日あったけど、ほとんど毎日連絡を取って。
文字にしたら、辞書何冊分になるんだろう。
僕たち以外の人がその文字列を見るとおそらく、何の意味もない言葉がたくさんあるけど、当時の2人にとってはとても大切な意味があって。
その存在は、僕にとっては習慣を超えて、常識となっていた。
 
たくさんのグルメを知った。
カレー、ラーメン、焼き肉、かつ丼、ハンバーグ、高級店のランチ、喫茶店、定食屋、パフェ、クレープ、パンケーキ。
僕たちだけのTabelogができて、街のそこかしらに思い出が散りばめられている。
神保町の喫茶店は秘密基地にしておく。僕一人ではあの場所にいけないから。
 
たくさんの観光地を知った。
お台場、浅草、横浜、みなとみらい、江の島、箱根、東京の神社、大阪、京都、岡山、愛媛。
僕たちだけのるるぶができて、街のそこかしらに思い出が散りばめられている。
みなとみらいにはもういけない。コスモワールドも。
 
たくさんの東京を知った。
東京に来て、良かったと思えた。
 
日常の生活に、笑顔があることに気づかせてくれた。
愛することの難しさを教えてくれた。
 
 
まだ胸は震えない。
想像も働かない。
でも、迫りくる来るまだ見ぬ時間に対して
眼を向けるしかない。
まずは喪失感に慣れることから。
大丈夫、僕たちなら。大丈夫。
 
未来、逆にすると来未(くるみ)
未来の逆は過去。
この詩、この感情が過去のものになって、
よかったと思える時間を過ごせてたら、いいな。
 
浮気も子育ても心配なくなった、遠いけど、近い未来、お互いが元気でいたらまた友達になりたい。
また何食わぬ顔で本屋さんで知り合うように計画を立てて、
高齢者友達になりたい。
 
その日まで、元気で。
 
前回も張り付けた「くるみ」
でも、今日はこの歌じゃないといけないから。
もう一度「くるみ」を。

2020年、夏、東京

あるバンドマンが言いました。
人生どうせ棒に振るならフルスイングで。
 
これまでみたいに長い文章は書けないかもしれないけど、どうにかまた再開することにしました。
”仕事が忙しい”は言い訳でしかないと感じながらも、このブログを開くことができない自分を責める日がたくさんありました。
何もない土日でも、Youtubeを見て、ただただ時間をすり減らしている自分もたくさん責めました。
 
自分を救ってあげるには行動するしかないと思いました。
 
人生どうせ棒に振るなら、全身全霊の力で、一発で手の皮がべろんとむけてしまうくらいの力で
生きているという打席を無駄にしないように、生きてみようと思いました。
 
また始めます。
楽しみにしてくれている人が現れて、その人を元気づけられる自分になれるように。
少しでも人の役に立つ自分になれるように。
また、始めます。
 
どうぞ、よろしくお願いいたします。