きみは「Let it be」と言った

ありのままに自分の好きなことを思いつくまま

ありがとう。さよなら

3/30 備忘のために、ぼくのために記事を残す
 
ニュースアプリの通知で目が覚めた。
志村けんさんが亡くなったとそこにはあった。
亡くなっていたのは3/29の夜らしい。
 
いろいんな人たちを遊びの場で見てきた。
思うのは、人生は不公平だってこと。
若いときからずっと恵まれている人もいる。
急上昇して急降下する人もいる。
人生の後半にピークを迎える人もいる。
ずっと恵まれない人もいる。
人生というゲームの勝ち負けに一定の法則がないことは、
これを見てもあきらかだろう。
ただし、ひとつ言えることがある。
ずっと恵まれてみえる人はみな必ず努力していることだ。
例外なくね。
 
テレビで見ていた志村さんは本当にかっこいい人だった。
 
僕はドリフターズの世代ではない。僕が知ったとき、志村さんは大御所になっていた。
テレビに映った姿しか知らないけれど、とても謙虚そうな印象を受けた。
とてもえらいはずの人なのに、親戚のおじさんのような親近感を抱いていた。
インターネットにある記事などでとても努力家で、突き詰めてやる人だということも知った。
何かのCMで見た、三味線を弾く姿がかっこよかった。
こんなおじさんになりたい、なんて本気で思っていた。
 
小学1年生の時、ぼくは引っ越しを経験している。
幼稚園まで同じだった友達と別れて、全く新しい土地に行く。
幼いながらに臆病になっていたのを覚えている。
転校してすぐに友達を作ることができるほど、開けた性格でもなかったため、転校してもすぐに友達はできなかった。
 
そんな僕を救ってくれたのが志村さんだった。
 
当時何かの特番で見たヒゲダンスを何かの拍子ですることで、一躍、ぼくはクラスの人気者になった。
それからも、志村さんの動きをまねした。
アイーン、変なおじさん、ダッフンダ。
僕は、とても面白い人という地位を確立した。友達がたくさんできた。
それからの小学校生活はとても楽しかった。
まぎれもない、ぼくの少年期にいい思い出を作るきっかけをくれたのは志村さんだ。
何か恩返しがしたい、僕が学年の人気者になったときからずっとそう思っていた。
それくらい、ぼくは志村さんに感謝をしていた。
 
恩返しの具体的な方法も思い当たらないまま、志村さんは逝ってしまった。
これまで何度か身体を壊していたことがあったらしいけど、コロナウイルスが原因だといわれている。
 
悲しむだけで終わらせてはいけない。仕事中もソワソワそんな事ことを考えていた。
そして、意識を変える機会にしようと思った。
忘れないことが死者へできる唯一の恩返しだと思う。
ではどうすれば忘れないようにすることができるか。
ものすごく自分本位だけども、最近考えていた自分の大切な想いを志村さんの死に載せることで、
志村さんを忘れないでいることができるんじゃないかと思った。
最近考えていた自分の大切な想い、それは、「全体を想像すること。」
 
社会は、世界の動きはルービックキューブのようなものだという考えが僕にはある。
一人の動きが、ほかの誰かに影響を与える。
いいことも悪いことも。
一つ一つの選択が必ず、何かのよ要素になって誰かに影響を与えている。
 
今回のコロナウイルスを例にとってみると、
僕が、一日外出するのを我慢するだけで、その外出によって買わなかった商品が
必要な人の手にわたり、その人が感染しなかったことで、その人の周辺の高齢者の命が救われるかもしれない。
その高齢者が感染しなかったことで、もっと多くの人の命が救われるかもしれない。
 
未来は読めないから、どの行動が正しいかなんてわからない。
でも、一つ一つの選択で未来ができていることは事実。
自分の未来の選択は、見知らぬ人の未来につながっていて、さらにその先には自分の先の未来がつながっているかもしれない。
自分以外に人がいて、その人にも必ず大切な人がいる。
 
そんな想像力をもって生活しよう。
そう想っていた。
忘れないように、志村さんのこともこの想いも。