きみは「Let it be」と言った

ありのままに自分の好きなことを思いつくまま

過去はもういない。

仕事で迎えにいくことは出来なかったけど、重いスーツケースを引きずって、
きみはぼくの家まできてくれた。
辛い重いをさせたにも関わらず、久々に会ったきみの顔には怒りの感情は皆無で、
喜びを堪えきれていない、笑顔があった。
 
世間は新型ウイルスの蔓延で、大変なことになっていて。
ぼくも一時は自分たちのために会わないほうがいいんじゃないかって提案をしたけれど、
それでも同じ場所で同じ時間を過ごしたい、そう思って、無理をしないことを前提条件として会うことにした。
 
私たちは、会えばぜったい、すぐにわかる
君の名は。」の瀧くんと三葉に比べれば、大した障害ではないけれど、
ウイルスの恐怖を超えて、県をいくつも超えて、会いに来てくれた君の顔を見るとすぐにわかった。
会ってよかったって。
 
 
その日の夜は行きつけの焼き肉屋さんでお肉を堪能して、
次の日はアウトレットに行って、たらふく買い物を味わって、
夜は隠れ家の鉄板焼き屋さんで贅沢して。
最終日は行きつけのラーメン屋さんから始まって、喫茶店を回って
季節を先取りしたかき氷を食べて、買い物をして。
 
 
行動(どこで何をした)と感情(どう思った)が混じったもの乗っけて、日常の時間は過ぎていく。
印象の強い出来事は脳に刻み込まれるけども、ずっと記憶しておくことは不可能で、
忘れたくないことを書き留めておこうとするけども、文章はそれほど万能でもない。
事実を100%表現することはできないし、何よりぼくにそれを紡ぎ出すための術がない。
 
福岡伸一さんは『動的平行』の中で記憶についてこのように言っている。
 人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。
 つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるに過ぎない。
本ではこの後、記憶の正体は、脳内の神経細胞が連繋して作り出す回路であり、
何かの刺激よりその回路がイルミネーションのように光り作り出す星座のようなものだと説明している。
 
この文章に出逢ったときに思った。
今の時間が経過すれば、すべてが思い出になるのだということを。
そして、それを思い出すのは今の自分で、そこに過去は存在しないということを。
 
今これを書いている最中も、ぼくは事実を折り曲げ続けている。
僕が今綴っていることは、過去にあった事実ではなく、今懐かしいと思っている思い出だから。
当時の感情を思い出しながら、必死で、何かをつかむような気持ちで、言葉を綴るけども
やっぱり、その時のことをそのままの形では残すことはできていない。
 
悲しい気持ちはある。
それだけ幸せな時間だったから。
焼き肉を食べて「おいしい」を連発する姿も。
見たい服をたくさん見て喜ぶ姿も。
鉄板焼き屋さんで感動する姿も。
かき氷を食べてはしゃぐ姿も。
どんどん僕の都合の良い思い出になっていく。
脳内の神経回路が作り出す光をつないでできる星座が毎回異なったものになる。
 
でも、そうしてこれまで生きてきた。
忘れたくない記憶を忘れた悲しさを乗り越えて。
ときには、都合のいいようにつらい過去の事実を思い出に塗り替えて。
 
 
大丈夫。
きみのつらい過去の事実も、思うようにいかない現実も、思い出になっている。
きみにつらい思いをさせた過去はもういない。
あるのは、きみの脳内に形成された光る点を結んだ星座のようなものだけ。
 
過去が思い出になってしまう怖さには、今は目をつむって、
思い出が追いつけないほどに、楽しい今を重ねよう。
光をどんどん増やして、新しい星座をどんどん作っていこう。
無理に走り出す必要はない。ちょっとずつ、ゆっくりと。
 
 
また、会える日が楽しみ。