きみは「Let it be」と言った

ありのままに自分の好きなことを思いつくまま

会話より対話をするように

「一辺倒に、辛いときこそ笑え、みたいなこと言う人いてるやん。そういう人にだけはなりたくないわ。」
ヒッチハイク宮城県に向かう無鉄砲な僕を載せてくれた同い年ぐらいの小型トラックの運転手が言った。
「ほんとに辛いときは笑われへんしな。なんで自分だけって、そんな気持ちにもなるし。みんな同じ目に合えばいいのにってさえ思うときもある。そんな状態の人に笑えってのは、突き放してるみたいな感じやん。」
僕はただ聞いていた。関西弁が心地よかった。
「その人なりの頑張り方、踏ん張り方がある。この人も、あの人も頑張って生きてるってことを忘れたらあかんと思うねん。」
同意を求めるように、先を見る目を一瞬僕に寄せた。僕は無言でうなづいた。
「気の利いた事は言えんくても、せめて、相手のことを自分のことのように考えれる人になりたいな。」
岐阜に向かって、トラックはぐんぐん進んだ。
 
 
3/11忘れられない日になった。
僕はその時、大阪の実家にいた。帰省中だった。
微弱な揺れで目が覚めて、地震と確信するために、テレビを付けた。
飛び込んできたのは、予想していた震度2の数字ではなく、目を疑うような惨状だった。
叫ぶように原稿を読むアナウンサー。
車が流され、街が海に飲み込まれていく光景。
ビルの屋上からヘリに吊り上げられる人々。
何人も人がいたはずのビルの屋上が海になってしまう過程。
 
2012年。震災から1年後。
やっと僕は被災地である石巻気仙沼に足を運んだ。
骨組みだけになった防災対策庁舎を見た。
もう動かない時計をつけている太田小学校を見た。
しかし、暗くどんよりとしたイメージとは裏腹に、街は都会にはない活気があった。
復興という言葉を現実を受け止め生きている人がたくさんいた。
 
僕の大好きな作家である池澤夏樹さんの『春を恨んだりはしない』に以下の文章がある。
人は行きつ戻りつゆっくりと喪失を受け入れる。
失ったものについて、あれこれとなく考え、嘆き、時に泣き、忘れたと思っては思い出し、本当は辿りたくない道をぐずぐず前に進む。
 
当時はショックで自分の名前が書けなかった、とはにかんで話してくれたおばさん。
何度も来てくれてありがとうと手を握ってくれたおばあちゃん。
自分たちがいることを忘れないでくれ、と訴えてくれたあの眼光の鋭いおじさん。
自分のできることでこの土地を元気にしたいといっていた青年。
夢は地元で教師になることだと教えてくれた少年。
アートの力で復興を支援したいと考えていると照れて教えてくれた少女。
震災で大切な家財がすべてなくなっても、目の光は失っても、生きるしかないと語ってくれた仮設住宅に住んでいた人々。
 
みんな、おそるおそる、でも確実に踏み出していた。
 
 
2020年、春。新しいウイルスの蔓延によって、世の中暗いニュースがあふれている。
未曽有の事態だからこそ、政府の対策への疑問が起こり、
情報社会に翻弄された市民はパニック状態。
SF映画のような展開。
ウイルスによって大切な人を失った人も多くいる。
これから、もっと大きな混乱が起きるかもしれない。
停滞する社会は、経済活動を低迷させるだろうし、ウイルスで亡くなる人よりも
もっと多くの人が社会的に抹消される可能性すらある。
 
ウイルスの蔓延は、自然災害とは違う。
恐怖に対して心構えができる。
自分が被害者にならないように、周りに迷惑をかけないようにできることがある。
 
ウイルスの蔓延は自然災害と似ている部分もある。
みんな圏外に立つ評論家ではなく、当事者であるという部分だ。
ウイルスをどれだけ避けても、感染するときは感染する。
誰しもが大切な何かを喪失する可能性がある。
何者でもない、ぼくたちもできることが必ずある。
 
誰かを突き放していいことなんてない。
自分も当事者である、という気持ちを忘れないようにしたい。