きみは「Let it be」と言った

ありのままに自分の好きなことを思いつくまま

流れ星が消えないうちに ~悲しさと生きること~

一目惚れ、という言葉は本との出逢いにもある。
美しいタイトルとその装丁から僕はこの本に一目惚れをして購入したのだった。
 
橋本紡さんの『流れ星が消えないうちに』

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流れ星が消えないうちに (新潮文庫)

流れ星が消えないうちに (新潮文庫)

  • 作者:紡, 橋本
  • 発売日: 2008/06/30
  • メディア: 文庫
 
この本で橋本紡さんを知り、この本をきっかけに、橋本紡さんの小説を何冊か読んだ
もう何度も読んでいるけど、改めて再読したので、その感想を書いていこうと思う。
 
 
あらすじはありきたりな恋愛小説かもしれない。
小学生から一緒だった奈緒子と加地君は高校生の時、ある出来事がきっかけで恋人同士になる。
しかし、大学生になった時、加地君は事故で死んでしまう。
その後、奈緒子は加地君と仲の良い巧君と恋仲になるけども、二人の間にはいつも加地君の存在がある……
 
奈緒子の視点と巧君の視点、そして現実や回想のシーンがきれいに展開され、
飽きることなく次々にページをめくった。
 
恋愛小説は時に、無理のある設定や物語展開で描かれることが少なくないし、
そういった恋愛小説はあまり得意ではない。
そんなことあるはずがないだろう、とどこかでストーリーに入りきれない自分が出てきてしまうから。
しかし、この物語は現実味を帯びている。
打ちひしがれる事態から立ち直るために葛藤し、もがき、それでも一歩を踏み出そうとする姿が描かれているから。
 
 
人間の精神・心は、繊細で弱いものだと思っている。
失恋したとき、
大切なものを失ったとき、
信頼している人と価値観が合わなかったとき、
家族の関係がうまくいかなかったとき、
障害が現れたとき、
そんなときに、弱さがひょっこりと顔を出す。
弱さの正体が自分にあるのだと思ってしまうと、どんどんと考え悩んでしまう。
いつの間にか自分がとてもちっぽけな存在に思えて、良くない考えが次々に頭に浮かぶ。
 
うまく弱さに対峙することができず、焦ってすぐに解決しようとしてしまうと簡単に心は壊れてしまう。
心に制御がきかなくなると、肉体を傷つけ、滅ぼそうと動き出してしまう。
 
人間にはそんな心がみんな一律に備わっている。
精神的に強い人だね、と言われる人もみんな、弱い部分がある。
人に弱さを見せていないだけ。そんな人が実は一番弱かったりする。
 
でも弱いだけじゃない。
人間の精神・心は弱さを乗り越えることができる。
大切なことは、時間の流れに身を任せて、悩みを熟成させること。
時間をかけて、弱さを認めるために真っ向から対峙し、ぐるぐると時間をかけて迷路の中でもがくこと。
とてもつらいことだけど、経過する時間の中で、さまざまなことを知る。
自分のこと、相手のこと、世界のこと。
そうすると、不思議と人はまた一歩を踏み出すことができる。
そうして、人はやさしく、強くなれる。
 
奈緒子の言葉がとても素敵だった。
不幸なんて、いくらでもある。珍しくともなんともない。
けれど、ありふれているからといって、平気でやりすごせるかといえば、そんなわけはないのだ。じたばたする。泣きもする。喚きもする。
それでもいつか、やがて、ゆっくりと、私たちは現実を受け入れていく。そしてそこを土台として、次のなにかを探す。探すという行為自体が、希望となる。
 
この物語全体に漂っているやさしさの正体は、弱さに真っ向から立ち向かい、逃げずに悩む登場人物の姿勢から生まれていると思う。
弱さと対峙して、つらい状況にあるぼくたちを、それでいいんだよ、と肯定してくれる。
 
 
伏線の回収もきれいで、ハッとさせられる言葉がちりばめられている。
何より、いつの間にか作品が醸し出すやさしさに包まれて、そっと背中を押されている。
小説の良さを改めて教えてくれる、素敵な作品です。
ぜひ、読んでみてください。
 

坊っちゃん ~自分の存在意義と他人~

日本人なら誰でも知っているといっても過言ではない作品。
親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。
有名であるがゆえに、国語で、書き出しをこたえよ。のような問題も出題されたりする。
久々に夏目漱石の『坊っちゃん』を読み返した。

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坊っちゃん

坊っちゃん

 
初めてこの本を読んだのは、大学生の時だった。
二十歳を超えてからだったと思う。
読書に目覚めた僕は、当時の話題作などの新しい作品しか読んでいなかった。近代文学には手を出せていなかったのだ。
理由は簡単。
作品に古い日本語表現が混じっていたから、である。
 
ただ、小説の面白さを知っていくうちに、近代の文学も読んでみたいと思うようになってきた。
教科書でも紹介されるほどの偉人が描いた作品は、どれほど面白いのか気になった。
 
どこから手を出そうか悩んだ末、高校の国語の教科書に『こころ』が掲載されていたことを思いだした。
『こころ』は読みやすかった覚えがあったから、夏目漱石の作品を読んでみようと思った。
中でも内容は全く知らなかった『坊っちゃん』を選んだ。
近代文学の入門として、『坊っちゃん』を選んだことは正解だった。
 
夏目漱石の文体は、歯切れがとても良い。リズミカルで一文一文の情報量が多くないから、古い文体、難しい言葉が入っていても、読んでいてしんどくならない。
また『坊っちゃん』は一人称で語られるため、感情移入がしやすい。
ストーリー展開も早く、飽きることなくページをめくることもできた。
 
 
あらすじは、筋の通らないことはしない、自分の気にくわないことはしないという”坊っちゃん”が
東京の学校を卒業し、松山の中学校に赴任してからのどたばた生活の物語。
 
 
喜劇のようだけどそれだけじゃない。
今回読んでいて、物語全体から「寂しさ」のようなものを感じた。
 
坊っちゃん”のように素直で単純で真率な人は、社会においては生きづらいだろうな、と思った。
残念ながら、社会はそのような人に対してやさしくないから。
 
日本人特有なのかもしれないけれど、年を取るにつれて、周りの目を意識するようになる。
それは素晴らしいことであるとぼくは思う。
相手は何を不快に感じるのか、どうすれば迷惑をかけないか、できるだけ間違いでない行動や言動を考えて体現する。
そうして繊細に生きることは、自分以外の人の幸せにつながるだろう。
いい人だと思われるだろうし、信頼関係も築くことができる。
人間として、日本人として相手のことを思いやることができるのは文化であり、世界から評価もされている。
 
ただ、少し問題だと思うのは、社会において相手を思い考えることが暗黙の了解になり、できることが当然となっていることである。
そのような雰囲気は、ときに異質なものを遠ざける流れを生む。
目立った悪者はいないのに、気に入らないものを排除しようという負の力が働いてしまうことがある。
 
坊っちゃん”に降りかかる出来事もそんな負の力が働いてしまったものであると思う。
誰も悪くない。だけど、なぜかよくはない出来事が起きてしまう。
その出来事は、とても現実的で、陰湿。
 
そんな社会では、素直な人は孤独を感じ、寂しい思いをすることが少なくない。
坊っちゃん”も、松山赴任中はずっと寂しかったのではないか、と思う。
坊っちゃん”の松山での生活はいつも一人だったし、”唐茄子のうらなり君”に得体のわからない共感を感じていたことからも、それは伺える。
物語の最後では、協力してくれる教師がいたけども、それは共通の敵がいたからで
最後のページでその教師と別れが簡単に書かれているけども、別れたきり逢う機会がない、とも書かれている。
 
どれほど滑稽な場面でも、作品から常に寂しさがあった。
 
ただ、それだけの物語であると、『坊っちゃん』はこれほど有名にならなかったとも思う。
”清”の存在が”坊っちゃん”も読者も 坊っちゃん』という作品全体に息を吹き込んでいる、と僕は思った。
 
”清”は、”坊っちゃん”が幼少の時から家族にも疎まれていた”坊っちゃん”を愛し、”坊っちゃん”のすべてを受け入れてくれていた存在である。
そして、”坊っちゃん”に何があろうと大成するであろう、と言ってくれていた。
松山での生活中、”坊っちゃん”が”清”からもらった手紙を読むシーンが登場する。
”清”の存在は”坊っちゃん”にとって、とても心強かったはずだ。
 
実生活においても、自分をすべて受け入れてくれる存在がいることは、とても心強い。
何かうまくいかない時、孤独だ、と感じることが一番心にこたえると思う。
何かがうまくいかないことはよくあると思う。その時、様々な感情が生まれる。
ダメだな、と思うこともあれば、なにクソ、と思うこともある。
大切なのは、その吐き出し口があること。吐き出してはいなくても、その存在がいること。
一人、そういう存在がいてくれるだけで生きてみようと思えるほどだと思う。
 
ぼくにも、ありがたいことに確かにそういう人がいてくれる。
そういう存在に生かされてきたのだ、と『坊っちゃん』を読んで改めて気づかせてもらった。
人を生かすために生きている。
人間の生きる意味はそういったところにあるかもしれない。
自分の存在意義はあくまでも自分ではなく他人が決めるのかもしれない。
 
歴史における名著はやはりすごかった。
 

ありがとう。さよなら

3/30 備忘のために、ぼくのために記事を残す
 
ニュースアプリの通知で目が覚めた。
志村けんさんが亡くなったとそこにはあった。
亡くなっていたのは3/29の夜らしい。
 
いろいんな人たちを遊びの場で見てきた。
思うのは、人生は不公平だってこと。
若いときからずっと恵まれている人もいる。
急上昇して急降下する人もいる。
人生の後半にピークを迎える人もいる。
ずっと恵まれない人もいる。
人生というゲームの勝ち負けに一定の法則がないことは、
これを見てもあきらかだろう。
ただし、ひとつ言えることがある。
ずっと恵まれてみえる人はみな必ず努力していることだ。
例外なくね。
 
テレビで見ていた志村さんは本当にかっこいい人だった。
 
僕はドリフターズの世代ではない。僕が知ったとき、志村さんは大御所になっていた。
テレビに映った姿しか知らないけれど、とても謙虚そうな印象を受けた。
とてもえらいはずの人なのに、親戚のおじさんのような親近感を抱いていた。
インターネットにある記事などでとても努力家で、突き詰めてやる人だということも知った。
何かのCMで見た、三味線を弾く姿がかっこよかった。
こんなおじさんになりたい、なんて本気で思っていた。
 
小学1年生の時、ぼくは引っ越しを経験している。
幼稚園まで同じだった友達と別れて、全く新しい土地に行く。
幼いながらに臆病になっていたのを覚えている。
転校してすぐに友達を作ることができるほど、開けた性格でもなかったため、転校してもすぐに友達はできなかった。
 
そんな僕を救ってくれたのが志村さんだった。
 
当時何かの特番で見たヒゲダンスを何かの拍子ですることで、一躍、ぼくはクラスの人気者になった。
それからも、志村さんの動きをまねした。
アイーン、変なおじさん、ダッフンダ。
僕は、とても面白い人という地位を確立した。友達がたくさんできた。
それからの小学校生活はとても楽しかった。
まぎれもない、ぼくの少年期にいい思い出を作るきっかけをくれたのは志村さんだ。
何か恩返しがしたい、僕が学年の人気者になったときからずっとそう思っていた。
それくらい、ぼくは志村さんに感謝をしていた。
 
恩返しの具体的な方法も思い当たらないまま、志村さんは逝ってしまった。
これまで何度か身体を壊していたことがあったらしいけど、コロナウイルスが原因だといわれている。
 
悲しむだけで終わらせてはいけない。仕事中もソワソワそんな事ことを考えていた。
そして、意識を変える機会にしようと思った。
忘れないことが死者へできる唯一の恩返しだと思う。
ではどうすれば忘れないようにすることができるか。
ものすごく自分本位だけども、最近考えていた自分の大切な想いを志村さんの死に載せることで、
志村さんを忘れないでいることができるんじゃないかと思った。
最近考えていた自分の大切な想い、それは、「全体を想像すること。」
 
社会は、世界の動きはルービックキューブのようなものだという考えが僕にはある。
一人の動きが、ほかの誰かに影響を与える。
いいことも悪いことも。
一つ一つの選択が必ず、何かのよ要素になって誰かに影響を与えている。
 
今回のコロナウイルスを例にとってみると、
僕が、一日外出するのを我慢するだけで、その外出によって買わなかった商品が
必要な人の手にわたり、その人が感染しなかったことで、その人の周辺の高齢者の命が救われるかもしれない。
その高齢者が感染しなかったことで、もっと多くの人の命が救われるかもしれない。
 
未来は読めないから、どの行動が正しいかなんてわからない。
でも、一つ一つの選択で未来ができていることは事実。
自分の未来の選択は、見知らぬ人の未来につながっていて、さらにその先には自分の先の未来がつながっているかもしれない。
自分以外に人がいて、その人にも必ず大切な人がいる。
 
そんな想像力をもって生活しよう。
そう想っていた。
忘れないように、志村さんのこともこの想いも。
 
 
 

「桜隠し」というらしい

今日は大雪だった。
道には桜が咲いているのに、ぼたぼたの大きな雪が空から落ちてくる景色は、おとぎ話のそれのようだった。
 
ツイッターで言葉を見つけた。
立春を過ぎて雪が降ることを春の季語で「桜隠し」というらしい。
響き、字面ともにとても素敵な言葉だと思った。
 
日本が世界に誇る文豪の三島由紀夫は『文章読本』で日本語について以下のように言っている。
日本語の特質はものごとを指し示すよりも、ものごとの漂わす情緒や、事物のまわりに漂う雰囲気をとり出して見せるのに秀でています。
 
仕事において、言葉の定義はとても大切。
できるだけ自分の認識を相手に誤って伝えないように、あやふやな表現を排除し、簡潔に的確に言葉を発する。
入社し、今の部に所属して、一番初めに先輩からいただいた言葉が、
「伝えたことが伝わったこと。」という言葉で、これは今仕事をする中でも、意識するようにしている。
 
仕事で使う日本語も好きではある。
自分の考えを相手に適切に伝える、ということは楽しく、そうして議論を重ねることはとても刺激的である。
ただ、和歌や小説などで使われている伝わり方を相手に託す日本語も僕は好きだ。
文章を読んで、想起するものは人それぞれ異なる、それは音楽やアートなど、芸術としての面が強い”言葉”といっていいかもしれない。
機械的に不要なものを排除していないため、その”言葉”には人となりが垣間見える。
そういった言葉を使ったコミュニケーションからは、学ぶことが多いし、相手のことをより深く知ることができる。
深みのある言葉を楽しむことができる。
 
 
最後に、今日「桜隠し」という言葉を調べていた時に出逢った歌を紹介したい。
 
霞たちこのめもはるの雪ふれば
花なきさとも花ぞちりける
   ―――紀貫之 『古今和歌集
 
日本語を母国語として使っているこそ、日本語の美しさを大切にしていきたい。

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